履歴
1956年7月13日(金)、神戸市灘区生まれで、現在68歳です。
ランバス記念幼稚園 ( 兵庫県神戸市灘区岸地通5-2-17 ) 1963年3月卒
神戸市立福住小学校 ( 神戸市灘区福住通7丁目-1-1 ) 1969年3月卒
神戸市立上野中学校 ( 神戸市灘区国玉通1丁目1番1号 ) 1972年3月卒
兵庫県立神戸高等学校 ( 神戸市灘区城の下通1丁目5番1号 ) 1975年3月卒
神戸大学 ( 神戸市灘区六甲台町1-1 ) 1982年3月卒
日本ヒューレット・パッカード株式会社 2014年12月卒
以上だけだと、殺風景なので、以下雑文。
生まれたのは神戸市立中央市民病院です。
私が生まれた頃は、現在の山陽新幹線新神戸駅の辺り(布引)にありました。
現在はポートアイランドに移転してます。
幼稚園に入る前に保育園にも行ってました。
青谷にある愛児園です。
それまで自宅に居て、3歳で急遽集団に入り団体生活が始まったわけですが、私は団体行動が出来ないのだという事を痛感させられました。
「三つ子の魂百まで」と言いますが、それは正しく、還暦を過ぎた今でも、団体行動は苦手なままです。
人生100年時代と言われる今日、百歳まで生きたとしても、生涯団体行動には慣れ親しめないでしょう😅
この頃の団体行動というのは、例えば先生が「皆さん、お遊戯の時間ですよ」と声をかけると、周りの皆は「は〜い」と返事してお遊戯を始めるわけですが、私は「自分がやりたくない事は、やらない」という事で、園庭に出て走り回ったり、遊具で遊んだりしていました。
当然の事ながら先生としては、やってられないわけだし、万一目が届かない所で私が大怪我でもしようものなら、その責任も負えないわけなので、早々に退園処分されてしまいました。
幼稚園に入り直してからも、私の行動は変わらなかったのですが、保育園の先生より幼稚園の先生の方が少しは緩かったのか、もう見放されてしまっていたのか、形だけは皆勤賞付きで卒園しました。
小学校に上がったからといって、大人しくなるわけない私は、小学校でもマイペースで、授業中も自席に大人しく座って居られませんでした。つまり教室内をウロウロと歩き回っていました。
当然の事ながら、先生からしたら「長年教師をやってきましたが、こんなお子さんは初めてです。」となるわけで、毎日のように母親に連絡が行ってました。
母親は、辛かったでしょうが、3歳で保育園を辞めさされた時から、「この子はこんな子なんだ」と腹を括っていたのだろうと思います。
挙げ句の果てに、先生から「この子は精神異常ですから、病院に連れて行って検査をしてもらって下さい」とか「普通クラスでははみ出すので、特殊学級に移って下さい」とまで言われたようですが、一方で、ペーパーテストはほぼ全て💯満点だったので、知恵遅れなわけではないという事になり、クラスからの追放だけは免れました。
小学2年の途中から、父親の転勤の関係で、岡山県倉敷市に転校したのですが、そこではもっと酷い状況に陥りました。
倉敷は神戸よりもイナカだったのです。
つまり、より閉鎖的だったのです。
先生の中に、倉敷に比べると、神戸は都会だという印象があり、都会の子が転入してくれたら、クラスが垢抜けるという期待でもあったのかも知れませんが、環境の問題ではなく、私個人の性格として、団体行動出来ないわけなのに、それが先生の逆鱗に触れてしまったようで、その時も相変わらずペーパーテストはほぼ全て💯満点だったので、通知簿で主要4科目では悪い成績を付けられないからと、実技科目の体育で「1」を付けられてしまいました。同じく実技科目の図画工作も「2」だったかな?同じ実技科目でも、歌やハーモニカは得意だったので、音楽は「5」だったかな?授業中は、ずっと窓の外の景色を眺めていた事をよく覚えています。
3年生に上がった頃だったかと思いますが、他のクラスの先生が、書道の先生で、放課後に習字を教えてくれているという話があったので、毛筆、硬筆両方を習う事にしました。別に何事にも興味を持たない子供だったわけではなく、自分が興味を持った事には、寝食を忘れて没頭するタイプだったので、確か翌年には先生が他校に異動してしまい、一年間だけだったと思いますが、習字には没頭しました。
4年生に上がると、逆に他校から異動してきた先生だったかが、合唱を指導したいという話になったようで、各クラスから音楽で歌の評価が高い子等が担任推薦でコーラスサークルに入れられました。最初の頃はそれなりに練習にも顔を出し、詳しい事は忘れましたが発表会にも参加しましたが、程なく飽きてしまい、練習に行かなくなり結果的に除籍されてしまいました。担任の先生が「顔を潰された」と不機嫌だったのを覚えています。
5年生になると転勤してきた人達だけで一つの街が出来てしまったという事で、新しい小学校が出来てそちらに転校となったのですが、其処では少しだけ環境が変わりました。放課後に、授業中に実際に使う各種プリント類を作成する事を担任の先生から依頼されました。今となっては貴重な経験「ガリ切り」に没頭したものです。他に、今となっては危険極まりなかったと思いますが、理科室の薬品を自由に使わせてもらえ、これまた放課後に各種理科実験をしたものでした。
私立中学への進学など全く頭の中に無かったし、結果的にそんな選択はしなかったのですが、このまま倉敷で生きていく自分が想像出来なかったので、父親一人倉敷に残し、私はまた神戸に戻りました。
中学に上がると、何を血迷ったのか、バスケットボール部に入ってしまいました。
体育会系部活動にもかかわらず、練習にはあまり参加せず、結果的にスタメンには程遠い3年間でした。
直接関係があるのかどうかはわかりませんが、156cm⇒184cmと身長だけは約30cm伸びました。
3年の夏休みで部活を引退した後、これまた何故か音楽の先生に呼び出され、女子部員しか居ない合唱部に入ってくれと誘われました。二つ返事で🆗し、文化祭で出演するまで続けました。
高校に上がると、今度は文化系部活動の合唱部に入りました。
これはもしかしたら人生初かも知れない自身での選択でした。
この高校の合唱部は、他と一線を画したものでした。
一言で言うと日本一の実績を誇る合唱部でした。
この合唱部に入りたくて、この高校を選んだと言っても過言ではないと思います。
丁度私が入部した頃も、前年、その年、その翌年と3年連続で全日本合唱コンクールで全国優勝しました。
3年連続で優勝すると、翌年、即ち、私が3年生の時はコンクール自体への参加資格が無くなり、招待演奏に出場すると言う栄誉に輝いたのでした。
勉強の方はと言うと、学校に個人ロッカーがあったので、教科書・ノートは全てロッカーに入れっ放しで、定期考査前も含め、一切勉強しませんでした。
没頭したわけではないですが、基本合唱一筋の高校三年間でした。
結果、いくつか受けた大学も全部不合格で、浪人生活する事になりました。
浪人というと本来受験勉強一筋の生活になるのでしょうが、例によって私はそんな事出来ず、繁華街で遊んだり適当な日々を送りました。そんな時に神戸三宮のセンター街にあったイナハラ事務機という事務機屋さんで、後に就職する事になるHewlett-Packard社の電卓に出会い、これにはハマりました。ハマってハマって、「将来はこの電卓を作っている会社に就職するのだ!」と思い込んでしまい、実際そうなりました。
実は神戸大学に入学する前に一浪で関西学院大学理学部物理学科にも入学しほんの一時期通っていたのですが、学風が合わず自主退学しました。
神戸大学では前半は語学に後半は数学に没頭しました。
語学は、第一外国語としての英語は置いといて、第二外国語としてロシア語、第三外国語としてフランス語、第四外国語としてギリシャ語、第五外国語としてラテン語を履修しました。ドイツ語は関学で第二外国語として選択しました。この他にも自宅にはスペイン語、アラビア語、中国語、韓国語、サンスクリット語等数々の語学教材が揃っていて、次から次へと読み漁っていた記憶があります。
アルバイトにも精を出しました。
やったのは塾講師と家庭教師だけでしたが、毎月手取りが20万円以上あったと思います。
後に就職した際の初任給が10万円程度だったので、アルバイトも馬鹿になりません。
学生ならやりがちな服買ってお洒落したり、車買ってドライブしたりというような方面には全くお金を使いませんでした。
まず最初にお金を注いだのが、Hewlett-Packard社製の電卓HP97でした。
残りは全部本に注ぎ込みました。
六畳一間のアパートに暮らしていたのですが、卒業する頃には寝るスペース以外は本棚で埋まってしまってました。
大学の図書館に無い本を、私の部屋に借りに来る人が居る位でした。
子供の頃から親に「自分が勉強したいと思う事だけ勉強出来る環境に生きたい」と言い続け、親からは「大学でなら、好きな科目だけを好きなだけ勉強して良く、その他の科目は一切勉強しなくても許される」と聞かされ、大学へ行きたいと思った口だったので、理学部数学科に進み、数学だけ勉強していれば良い環境に浸れた事は、生涯で一番幸せだった時期だったかも知れません。
一浪時代に自分勝手に就職先を決めていたので、所謂就職活動も一切せずに朝から晩まで数学の事だけを考えていました。
就職に関しては、4年生の秋になり、Hewlett-Packard社の日本法人だと聞いた「横河ヒューレット・パッカード社」の人事部に電話し、「御社で働きたい」と伝えると、必要書類が送られてきたので、記入し送り返し、指定された時間と場所で会社案内を聞き、東京本社で軽く面接を受けただけで内定をもらえました。
私の頭の中では「世界一の電卓のメーカー」という認識しかなかったので、面接で「やりたい仕事を尋ねられた」時も迷わず「電卓の営業」と答えた事は間違いありません。
後に、実際に「電卓の営業」を担当する機会に巡り合えた事も、幸せでした。
卒業が近付いてきたある日、私の専攻は幾何学だったのですが、代数学の助教授から「就職せずにこのまま大学に残って大学院に進学して数学を続けないか?」と声をかけられたくらい、学生時代後半は数学漬けでした。
就職の面接でも「数学科なら、就職なんかしないで、学問を極めたらどうだ?」と聞かれましたが、私の中での数学の位置付けはちょっと違いました。「ランニングって別に陸上競技選手にならなくたってやるじゃないですか。例えば野球の選手になってもボールを投げたり打ったりする前に、サッカーの選手になってもボールを蹴ったりする前に、基本トレーニングの一つとしてグランドを走り込んだりするじゃないですか。私の中における数学というのは、そのランニングのような位置付けで、今後どんな所で何をやっていくとしても数学的思考を身に付けておく事は必須だと思い、数学を専攻しました。」と社長相手に述べた事もよく覚えていますし、今でもその考え方は間違っていなかったと思います。
別に見積書を作成するのに三角関数の公式が役に立ったり、微積分の公式を適用したりという意味ではありません。